吉行淳之介さんの対談の魅力
吉行淳之介(著)「やわらかい話 吉行淳之介対談集 」(講談社文芸文庫) を読んだ。
吉行さんの著書を読んだのは「夕暮れまで」以来である。
この本は私の大好きな講談社文芸文庫から出ていて、今回も期待を裏切らずとても面白かった。
背表紙には、金子光春、和田誠、淀川長治、加山又造、山口瞳、寺山修司、開高健、田村隆一、桃井かおり、大村彦次郎、徳島高義、丸谷才一という名前が記載され、その偉大な方達と吉行さんの対談をを余すところなく収録している。
編集が丸谷才一さんであることと、「講談社文芸文庫 私の1冊フェア」として、阿川佐和子さんが帯文を書いているのでぜひ確認してみてほしい。
内容は、対談の名手と言われた吉行さんの変幻自在の話術に圧倒されながらも、どこか親しみを持てる自虐的な部分にとても共感した。
全体的に、吉行さんならではというべきか、いわゆる性についての話が多く、女性にとって少し下品に感じるところもあるかもしれない。
しかし、推薦文を阿川佐和子さんが書いていることから分かるように、吉行さんの魅力が一心に詰まった一冊となっている。
また、端々に挟まれる対談者の似顔絵を和田誠さんが書いていて、とてもこの本に親しみやすさをもたらしている。
やわらかい話 吉行淳之介対談集 (講談社文芸文庫)
対談考察
原稿用紙8枚なんて大長編?
この本で、吉行さんのような素晴らしい小説家でも、文章を書くことが嫌いと言っていることに驚いた。
p.218
吉行 おれはな、書くこと嫌いなんだな。ほんとに嫌いなんだよ。あんた、わりに好きなんじゃないの、書くの。
田村 いや、いちばんまちがえた道行った。このごろやはり雑文書かないとお金はいってこないだろ。しようがねえから雑文書くんだけどもね。だから、ぼくはオーダーとるとき、いつも「二枚? 三枚?」っていうわけよ。六枚だったら、もう中里介山になったような気持ね。「大菩薩峠」だよ。
吉行 いや、まったく同じだ。
吉行さんいわく、8枚なんて冗談じゃないらしい。
私は最近、ブログを書く手が進まず、「やっぱり文章を書く才能が俺にはないんだろうなぁ」と思っていた。
しかし、この文章を読んで、文章を書くことが苦痛なのは、特別なことではないのかもしれないと思うようになったのである。
私が基準とする文字数は2000~3000文字、つまり400字詰原稿用紙5~9枚。
そりゃ大変なはずである。
まぁ、私なんぞとプロの方を一緒にしたらいけないかもしれないが。
文章が書くのが辛いという方は、吉行さん言葉を頭の片隅においてほしいと思う。
プロだって辛いんだから大丈夫。
憧れの人には会いたくない
桃井かおりさんは、吉行さんのファンだが、遠藤周作さんに紹介してやろうかと言われ、断固として断ったという。
p.247
桃井 で、みんなが会いたいだろ、会いたいだろって言うけど、急いで会うのいやで、もっと準備して、大事に会いたかったの。
これも何となく分かるなぁ。
私の場合は、正直憧れの人に会いたいとは思わないが、どうせ会うならちゃんとした場所の方が良いと思ってしまう。
そもそも私が憧れの人に会いたくない理由は、その人に失望されたくないという自己否定観の表れだ。
また、その人と会うことで、知らなければ好きでいられたのに、知ってしまったおかげで嫌いになってしまうなんてこともある。
そういった意味で会いたくないのだ。
まぁ、一般人の私には、そもそも会う機会なんて訪れるわけがないので安心だが。
本棚に蓋をする
吉行さんは、驚いたことに、本棚に全て蓋をしているという。
本があることが品がないような気がするというのだ。
p.248
ぼくは本棚に全部ふたしてあるわけね。嫌いなんです。何かうっとうしいのね。本があることが何となく品が悪いような気がして、それでふたをしておく。
本棚というのは、その人の人格が現れる。
その人が何が好きで、何に悩み、何を糧として生きているのか、はたまた性的思考まで本棚をみれば分かってしまうから怖い。
吉行さんの波乱万丈の人生はとてもじゃないが真似できないが、この本棚に蓋をするというのは、実は私もやったことがあるのである。
実家に住んでいた時、どうしても両親に本棚を見られるのが嫌で、コピー用紙を本棚に張り付けて、それをめくらないと中が見れないようにしたことがある。
バカバカしいと思う人がいるかもしれないが、私にとってはすごく重要なことで、家族であっても私の一番の拠り所は見せたくなかったのである。
私は人に自慢できるほどの読書家ではないが、人生では常に横に本があったように思う。
本を楽しみ、本に悲しみ、本に絶望したことさえある。
それは私という人間が内向を好む傾向にあったことと特に関係していて、対人関係で満たされない部分を読書で補充しているのである。
だから、私は自分を自信満々に読書家などと言えるわけがないし、むしろ一番強いのは(私とは真逆の)本など読まずに良い人脈をたくさん持っている人だと思っている。
最近の読書至上主義にはウンザリしているし、それこそ読書すれば人生変わるなんてことを書くからもっと本離れが進んでしまうのだと思う。
みんな何かを大きなものを得るために本を読むようになるからだ。
それは読書じゃない、勉強、いや、物欲に近い。
私は読書を陰気な愉しみと言われても全く何も思わないし、読書する立場の人間であるが、むしろその通りだなと思う。
読書で何かを変えるなんて本に対して期待しすぎている。
たかが数千円で人生が変わると本気で思っているのだろうか。(※これは過去の自分に対しての戒めです。変わる人は本当に変わるため誤解されないようお願いします。)
人間はどうあがいてもその人間から逸脱しえない。
しかし、読書は純粋に楽しんだり、対人関係が苦手な人の拠り所になる、そんな場所であるとは思う。
そんな陰気な愉しみ。
それの何が悪い。
さいごに
私と吉行さんでは生きた時代が違う。
それは特に食事の面で強くギャップを感じた。
p.58
和田 ぼくはカエルをずいぶん食いました、戦後になってからですけれど。食用ガエルではないカエルですよ。
吉行 あれは赤ガエルがうまいんだったかな。
和田 いろんなもの食いました。ものがないからしょうがない。
今はある程度満ち足りた食事をしているのに、未だに幸せを感じることが出来ない私は傲慢なんだろうか。
私が思うに、便利になった代わりに表面的で一時的な幸せしか感じることが出来なくなってしまったと思うのである。
なんでも手軽に出来すぎるようになって、わざわざ自分でなにかをしなくていい。
しかし、その手軽さという欲を刺激して、甘い蜜を吸っている人もいるということを忘れてはならない。
何かをする時に考えた方がいいのは、本当にその人にお金が渡っていいのかと考えることだと思う。
そうすれば必然的に不便だけど幸せな生活に戻っていくのではないのであろうか。